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〒370-0067 群馬県高崎市請地町13番地

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長野堰の歴史

   長野堰は約千百年前に、平城天皇・阿保親王・在原業平を祖とする上野国守の長野康業により開削され、室町時代の長野信濃守業政が今の長野堰の原形に整備したと伝えられている。
その後、江戸時代には群奉行所、堰奉行所が設置され管理していました。
明治時代になってからは、長野堰水利土功会と関係町村会が合同で水路の管理にあたり、用水不足を補うため榛名山に隧道を貫通させ、榛名湖の水を河川に流入し、合流する烏川の増水を計ってきました。
 明治23年6月水利組合法により、長野堰普通水利組合が組織され、各市町村より選定された組合議員により維持管理され、昭和24年土地改良法が制定されるまで行われました。
法制定後は長野堰土地改良区となり現在に至り、施設の維持管理を行っています。
 

榛名湖水引用

   長野堰が榛名湖の水を農業用水として使いたいと思い始めたのは、遠く江戸時代より前のことでした。
烏川の水量が少ないため年々水不足に悩まされた時の為政者にとっては垂涎の的でした。
そのため、江戸時代の第八代高崎藩主大河内輝貞は、領内の箕輪付近の水利を良くしようと、榛原の南に位置する「するす(摺碓)岩」の麓に穴を開け、榛名湖水をするす岩麓の白川源流の小川に疏水しようと計画を立てました。
そして、1708年(宝永5年)1月高崎藩の11村が連合して、この計画の実施願いを徳川幕府に差し出しました。
   ところが、以前から飲用水、田用水として榛名湖水を沼尾川から引用して使用している吾妻郡岡崎新田村(幕府領)から、湖水が少なくなるため工事反対の願いが幕府に差し出されました。
このため、高崎藩側には厳しい裁可となりましたが、余水を引くことは許され、計画は実行に移されました。
   悪条件のもとに工事が行われましたが、輝貞は幕府の命により越後村上藩へ移され、工事は中断されました。
その何年か後に再び高崎藩主となった輝貞でしたが、諸般の事情が変わり、この工事は未完のまま無念の断念となりました。
高崎城主右京大夫大河内輝貞と呼ばれていたことから、後にするす岩の南面下位にあるその洞穴は、「右京の泣き穴」と呼ばれています。







右京のなき穴









榛名湖水門


   恒常的な水不足及び旱魃の水争いを繰り返し、榛名湖の水を使いたいという思いは消えず、長野堰増水方法を模索しながら、200年余りが過ぎました。
明治23年6月水利組合法により長野堰普通水利組合が組織され、明治34年12月、するす岩の西に位置する「天神峠」の麓に隧道を掘り、榛名湖水を榛名川に引き入れる(烏川の水量を増やす)工事の許可を、時の代表者は県知事に出願しました。
   しかし、岡崎新田村は工事反対の上申書、請願書等によって繰り返し、既得権の尊重を県知事に強く訴えました。
長野堰側と岡崎側は話し合いを重ね、様々な手立てを尽くして、遂に話し合いはまとまり、県知事より榛名湖引水許可の命令書が下附されたのは、明治36年7月13日のことでした。
これにより、岡崎側の沼尾川水門工事が始まり、長野堰側天神峠隧道工事は、明治37年10月23日竣工となりました。
それ以降現在まで渇水時には、補給水として 連綿と取水使用しています。
幾多の曲折はあり ましたが、以来岡崎用水とは良好な関係であり、それを示す標の一つがこの取水門です。
ことを成した先人のご苦労に対し感謝するものであります。



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